空手を学ぶことによって「乱暴な子どもになってしまうのでは」と、不安に感じておられる方もいらっしゃることでしょう。近年、テレビを中心とするインターネットなどのメディアの普及により、日常的に暴力的なシーンが氾濫し、蔓延している現代からすれば、「空手は乱暴」というイメージを持たれた上で、そのようにお考えになられるのも無理はありません。
第9回目「気配りのできる人」でもお話しさせて頂きましたが、「先手を取る」これは組手や試合において、相手の動きを瞬時に察知し、相手より先に行動を起こすということであり、武道においては「空手に先手なし」という教えが、本来の空手道精神なのであります。
実際、空手の形はすべて受けから始まります。空手は己の心と身体を鍛えるものであり、自分や、大切な人を守るものでもあるのです。危険な目に遭うような場合や、正当防衛などの場合は例外とし、理由なく相手を倒すということを道場で教えることはありません。また道場以外の場所で、空手の技を使うことは厳しく禁じていることでしょう。
「実際に戦うときのために、刀は常に磨いておかなければならない。但し、それを一生使わないでおくことが最も良いことだ。」
極真空手創始者 総裁 大山倍達
ここでいう刀を子どもたちが学んでいる空手の拳に置き換えると分かりやすいと思います。
守るべきものがある以上、万が一の為、刀(拳)は必要である。しかし自ら暴力や力を試すようなことはあってはならない。自分や大切な人が危険な場面に遭遇した時は、被害を最小限に抑えるように努める。その刀(拳)は一生に一度使うかどうかであり、使わないことにこしたことはない。それを一度も使わないということが良き人生であり「平和」に繋がることである。と、私は解釈しております。
子どもたちが試合で拳を交え戦うということは、両者が力や技を競い合う場でもあります。勝負故、勝敗もつきます。武道の心得を持つ者同士が共に称え、尊重し合う気持ちがあればこそ、勝敗関係なく互いが礼儀をつくすのです。武道を学ぶ者にとって、心得の無い相手や、理由なき相手に拳を向けるということは武道の精神に反することなのです。
「武」という漢字は「戈を止める」と書きます。「戈」(ほこ・槍)であり、要するに武器です。「武」とは、武器や暴力を止めるため、その心得や技を磨くための「道」が「武道」のあるべき姿なのです。
「力なき正義は無力なり、正義なき力は暴力なり」
フランスの哲学者ブレーズ・パスカルの著書である『パンセ』の中に書かれている言葉です。いくら正義感が強くても、それを守る力が無くては意味が無い、しかしいくら力を持とうと、そこに正義が無くてはそれも意味が無い。
拳も正義のために使わなければただの暴力です。しかし正義を貫く心がなければその正義も守られません。「心技一体」心と身体、その二つが伴ってこそ初めて真の強さと言えるのではないでしょうか。強さは優しさであるといいます。子どもたちのその拳は、弱き者や大切な人を守るものでもあると私は思っております。
☆桑島道場では
3月1日(日)~3月31日(火)の間
春季入会キャンペーンを実地していましたが
4月1日(水)~4月30日(木)迄
引き続き実施しております。
詳しい内容は下記のリンク先からご覧下さい♪
★桑島道場HP→http://www.niji.or.jp/home/kuwajimadojo
★桑島道場お知らせブログ→http://ameblo.jp/kyokusinkuwajima/
西山 静香 【国際空手道連盟極真会館香川県本部 桑島道場 指導員】
記事テーマ
平成24年度から中学校で武道が必修化されました。日本古来から伝わる武道には、ただ強くなるだけではなく「礼に始まり礼に終わる」という言葉がある様に、武士道精神は子供教育にも通ずるところが数多くあります。4歳~小学6年生の少年部空手指導員をしている現在、必修化された武道が教育とどの様に関わっているのかを知って頂ける機会になればと思っています。